普通の、という表現はあまり使いたくないのですが、古典歌舞伎の四谷怪談を久しぶりに観たように感じました。
中村屋の「四谷怪談」、コクーン歌舞伎の「四谷怪談」と続いていたので、どっぷり古典は久しぶりな気がしました。
そして、どちらがいいとか好きとかではなくて、古典ならではの面白さと、物足りなさ(ちょっとした仕掛けの稚拙さなど)の両面を再認識できたような気がします。
以前にも書きましたが、「四谷怪談」が嫌いなのは、怖いからではなくて、観ていて痛いしかわいそうだから。
今回は、痛くてかわいそうで胸が締め付けられる度合いが今まで以上に強くて、お岩さまが死ぬまで本当に胸が圧迫されたような痛さを感じてしまいましたし、そして・・・しっかりと暗くしていたというのもあると思いますが、怖かったです。
初日があいて割りとすぐに観たので、今観るとだいぶ変わってきているかもしれませんが。なんとなく全体的にまだ手探り状態な感じがしなくもなかったですね。
吉右衛門の伊右衛門は、いわゆる歌舞伎の‘すっきりとした色悪’というイメージではないので、顔の色はポスターぐらいに押さえたほうが、より伊右衛門の非道さが強まったように感じました(真っ白でびっくりしてしまいました)。
もともと結納金を主君のお金を盗むことでまかなってしまう悪い人なのだと思うのですが、最初に観た時は、ちょっとしたところから悪くなってしまった、というような感じを受けて少し違和感を感じました。
傘張りをしているときのイラツキ具合とか、伊藤の家から戻ってきて、いよいよ本格的に追い出そうとするときにフッと自分の中の悪人スイッチを入れる時や、隠亡堀の釣り糸をたれているときなど、細かいところですがさすがだと思いながら観ていました。
伊右衛門はもともと悪い人だけれど、塩冶浪人としてなかなか浮かび上がれない自分の身にイライラしていたり、結果DVという形で出てしまうという、許せないけれど人間らしい人なのかもしれないです。そういう部分をうまく出していたように思いました。
宅悦は、お岩さまの顔が変わったときの怖がり方が中途半端に感じました。伊右衛門もそうだったのですが、もっと怖がってくれないと、お岩さまの哀れさが半減してしまうように感じました。
それにしても、かわいそうな人です、お岩さま。
本当に救いがない。生きているときのお岩さまは繊細で儚くて、でも亡霊になってあれだけの執念を見せる力強さが根底にある人。
色々感じたのですが、とにかく見ていて苦しくなってしまったので、なんだかあまり覚えていません。
真女形のお岩さまだと、力強さという意味では少し不利なのかしらとも思いましたが、結構力強かったですね。近頃、あのDV場面で(あんなにひどくて目を覆いたいぐらいなのにどういうわけか笑う傾向にあるので)、本当は変に過剰にならないほうがいいのだと思うのですが。
今回、どうしても気になったのは美術です。
地蔵前と浪宅が殆ど一緒な気がしたのと、蛇山庵室の提灯抜けの下の植え込みが、ただディテールとして隠しているだけの板なのが丸わかりだったり、建物の全体のバランスがおかしかったり・・・
私、美術方面は詳しくないしよくわからないので、観ていて違和感があったり気になることはあまりないのですが、今年は浅草歌舞伎といい、今回の演舞場といい、なぜかとても気になりました。
演劇はトータル芸術ですから、その劇場の規格に合ったものを作っていかないと、どんなに俳優が頑張っても、そのいい演技が半減してしまうと思います。
演舞場や浅草での歌舞伎が、本当に歌舞伎座と遜色なく盛り上がっていくには、こういうところにも気を遣わなければいけないのではないでしょうか。
歌右衛門のお岩様といえばnaoさんが子供の頃観てトラウマ?になったんでしたっけ。